ヲシテ文献に学ぶ~君が代の真実~
君が代は 千代に八千代に
さざれ石の 巌となりて こけのむすまで

君が代について諸説あるなかで、わが国の国歌は、どこから生まれてきたものなのでしょう?
「ヲシテ文献」に源をたどることができるのでしょうか?
びーちぇさまにお尋ねしました。
「びーちぇのヲシテのクニ」
http://julian.way-nifty.com/woshite/
以下に、教えていただいた内容を全文転記させていただきます。
以下転記
キミとは特別な尊いコトハでありました。
文献中には528もあり、
最初に出てくるものを何個所か挙げてみましょう。
キミガヨノ スエノタメシト (ホ0-4)
ワガキミノ ヨヨニツタハル (ホ0-8)
アマキミト ナツケタマハル (ホ0-14)
キノミユエ キミハヲメカミ (ホ1-15)
ワサオワケ キミトミタミノ (ホ2-5)
「キミ」は大変な尊い言葉で、
アマカミと、その皇子か、
そのお血筋の特に業績の秀でた方、
何事かあった非常時には、
御位をお継ぎになれるほど徳の高い方として、
アマカミから認められ戴く尊称であったのです。
皇子のおひとり「ハラヲキミ」のニニキネさま。
「ツクシヲキミ」のホオデミさま。
みな、後にアマキミになられたのです。
皇子ではないけれど、オオナムチさまの
「カルキミ」「カルキミヲキナ」という讃め名もあります。
ツカルへ国移りされてからのご業績が
よほど素晴らしかったのでしょうね?
そして絶対にトミ、タミは「キミ」にはなれなかったのです。
現在の国歌としての「君が代」制定の始めは、
明治2年、当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うイギリス歩兵隊の
軍楽長の進言をいれて、愛唱する薩摩琵琶歌の歌詞中から、
採用されたと伝えられています。
余談になりますが、
私は鹿児島に10年近くも暮らしていたことがあります。
その時のパートナーが、
その後島津家ご当主とのご縁を頂いたことから、
今でも武(もののふ)の心として、
示現流の剣と共に「薩摩琵琶」を修めるのが必須と
大事に伝えられていることを知りました。
まことに薩摩琵琶だけは、鹿児島において、
ただの歌舞音曲の範疇にはないのです。
さて、この大山の愛唱した薩摩琵琶歌「蓬莱山」は、
薩摩の武士(もののふ)たちが、目出度い時に謡うという、
特別の琵琶歌でありました。
薩摩琵琶歌「蓬莱山」
めでたやな
君が恵みは久方の 光り長閑き春の日に
不老門を立出で 四方の景色を詠むれば
峰の小松に雛鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ
君が代は千代に八千代に
さざれ石の、巌となりて苔のむすまで・・・
(中略)
・・・かほと治まる御代なれば
千草萬木花咲実のり 五穀は國にみちみちて
上には金殿桜閣甍をならべ
下には民の竈賑ひて賑ひて
仁義正しき御代の春
蓬莱山とは是とかや
君が代の千とせの松も常盤色
かはらぬ御代のためしには、
天長地久と、国も豊に治まりて
弓は袋に 剣は箱に蔵め置く・・・略
このように、この謡の「君」とは君主のことで、
治世の豊かさを讚える寿ぎ歌であったのです。
さて「君が代」のいちばん古いと思われる元歌は、
一般的には古今集とされていて、
その句は「我が君」で始まる故に、
自分の直接の主君や、親しい友、あるいは家族のことであって、
天皇さまのことではないという説も出回っている昨今です。
けれども、それよりも古い和歌があったことは、
まったく知られておりません。
先代旧事本紀(大成経)巻六十二 詠歌本紀
下巻第五祝歌属文
金刺宮御宇 天皇治世而大政
きんめいてんのうのみよ
てんのうのまつりごとはおおいにおさまりて
不下先皇 兆民悦之 祝世而謡之
さきつみかどにおとらず
おおみたからこれをよろこび
よをいわいてこれをうたう
君之代者千代于八千代于
きみがよは ちよにやちよに
微小砂石之盤巌興成而苔之結迄
さざれいしのいわおとなりて
こけのむすまで
時人
ときのひと
継体天皇さまのご嫡子で第29代の欽明さまです。
さきつみかどは、庶兄の28代宣化天皇さまです。
天皇さまの御代への祝い歌に間違いありません。
私見ですが、この読み下し文がどうも気に入りません。
表面の意味しか伝わってこないのですよね・・・。
この時代はいうまでもなく漢字時代になっているわけで、
この原文は和漢文なのですね。
ですから、使ってある漢字の意味をもっと考えて訳さないと、
本来の意味が伝わってこないような気が致します。
その意味から、
次の五十嵐氏の解説はとても興味深いものがあるので、
要約ですが、ご紹介いたしましょう。
▼
「君之代者千代于八千代于」の句節は、
それぞれ、「現在・過去・未来」を表し、
三世の生命の働きが秘められている。
「君之代」は今上天皇の御世、すなわち現在を指している。
そして現在とは必ず、
千年もの過去と、八方に広がってゆくような未来を含んでいる。
あるいはこの「八」の字は「弥栄」に通じている語句とも思える。
「弥栄なる千年もの未来」という意であるかも知れない。
このように、日本人の魂には深遠なる生命哲学が
自ずから宿されているのである。
「微小砂石之盤巌興成」の句節は、
「国民と天皇の結びつき」 を表している。
もちろん「微小な砂石」とは民のことであり、
「巌」とは天皇を意味し、
そして「興成」では、 この両者(の心)が固く一つに結ばれて
「盤」と成り興る。
「苔之結迄」は、「我々の命が無くなるまで(結ぶ)」という
決意を指していて、このような君と民の結びつきは、
「死して亡骸に苔が生じ、草が生じ、土に還ってまでも」
と、伝えているのである。▲
( 参照 『国歌 君が代のルーツ』 五十嵐楠央司 リーブル )
五十嵐氏は、この祝い歌の底に流れているもの、
当時の天皇さまと民たちの心の繋がりを、説明しておられるのですね。
それはヲシテ時代以後、連綿と現代にも続いているわけで。
歌の表面の意味と、
底に流れる、古来からの日本の心、
それはまったく当たり前の常識のようなものでありました。
カカンナス ハルノヒトシク
メクリキテ イソノマサコハ
イワトナル
(ホツマツタヱ 0-22)
ホツマツタヱの序文の中の「ハナノソヱウタ」の一部に、
まるで、源泉のようなコトハが記されています。
小さな砂粒のようなヒトヒトが、
キミの立たれているヨの中で時間経過することで、
互いに集まり、助け合う社会を形成していく様子。
それもイワと呼ばれる。
当時は、社会、人間、自然をとりたてて分けては考えていないように
思われる・・・との解釈があります。
キミはタミを慈しみ、タミはキミをお慕いする。
心は睦みあい、一つとなり、クニの平和は保たれる。
建国の太古の時から、当代の御世、そして未来永劫にわたるまで。
キミとタミの固く結びついたこのカタチが、
きっとクニと表現されるものではないでしょうか。
そして、それを守るためには
苔むすカバネとなることも厭いはしない・・・
『君が代」は、
そのような高貴な日本人のアイデンティティをこめた、
祝い歌だったのですね☆
最後に
この最古の「君が代」の出典文献の
先代旧事本紀(大成経)について、故・松本善之助先生が
その著書『秘められた日本古代史』の中に述べられておりますので、
追記しておきましょう。
▼
寛文年間(1666頃)、
僧潮音と伊勢伊雑宮の神官、永野采女が出版した大成経七十二巻には、
非常な興味を覚えました。
その聖皇本紀(第三十六巻)の用明天皇条では、
ホツマツタヱがいかにして漢訳されたかという検証として、
注目すべき記述があり、
また、欽明、敏達、用明、推古の各天皇の条と、
書紀のそれとを比較してみると、
この部分について大成経は、
書紀の原本ではなかったかとさえ思われる節があります。
その他、詠歌本紀(第六十一巻)には、
他のいずれの古典にも載せられていない七代孝霊天皇の御製があります。
これはホツマツタヱから流れたと思われるのですが、
その道筋がどうだったか、この解明にはとても興味が持てます。
また、大成経の出版は、上述のように徳川初期ではありますが、
かつて河野省三博士がこの書の材料について、
「その源流は、もう少し遠く深い処まで
漕ぎ上がる必要を感じてやまないのである」
(同博士著『旧事大成経に関する研究』より)
と言われましたが、
私は同博士の思われるより遥かに古く、
聖徳太子の頃まで溯り得るものではなかろうかと思っています。
私にとって、推古紀28年12月(629)の、
天皇紀、国紀収録の記事は
ホツマツタヱを漢訳した部分を含むものとして
ゆるがせにはできない条なのですが、
この「記録」と、先代旧事本紀(794)と大成経との関係には、
特別の関心があります。
ホツマツタヱそのものが、
いかにして他の文書に受け継がれてきたかという
伝来の問題に注意を払う者として、
この事に鈍感でいられるはずがないからです。▲
もうひとつ真名の「日本巡礼」には、
ホツマツタヱと先代旧事本紀と記紀の位置について
論じた記事がありますので、興味のある方は読んでみて下
さいませ。
http://blog.goo.ne.jp/manasanda/e/cc9af1ddab390087f4935e690063f3a7
例 アチヒコさま(思兼命)に関する記事の結論
▼
○ ヲシテ文献から、大部分の記載が翻訳漏れした上で
○ その上で、すべての記載が日本書紀、古事記から翻訳漏れします。
○ 古語拾遺に断片、残欠が残留します。
上に書いた二段階の翻訳漏れの理由も、推定できます。
先代旧事本紀の問題の記載は、
「神話的人物」あるいみ「神々」を
「日本列島の実在の家系や場所」に連結するキーポイントになっています。
思兼命は、ヲシテ文献では明晰な人物像があり、
各地に事跡を具体的に残しており、
アチの地で入寂した(人間)です。
先代旧事本紀では、人物像はかなり曇ってきますが、
その子孫が信濃の阿智の地で繁栄しているわけです。
つまり「神様」ではなく、
「実在の人間」であることがわかるわけです。
先代旧事本紀のこの重要部分が、なぜ日本書紀・古事記にないのか?
それは、思兼命が、天上で活躍する神話的人物であるために、
それを列島の実際の地名や人々と、
結合したくなかったからに違いありません。
ここに、日本書紀(の前半部)、および古事記の編集意図が、
「神話と歴史との分離」
「神の導入」
にあったことが推定できます。
こう考えない限り、
古事記、日本書紀における阿智への無視を説明することは困難です。▲
以上、全文転記
キミはタミを慈しみ、
タミはキミをお慕いする。
心は睦みあい一つとなり、
共に楽しく助け合い、
そしてクニの平和は健やかに保たれていく。
建国の太古の時から、当代の御世、
そして未来永劫にわたるまで。
キミとタミの固く結びついたこのカタチが、
きっとクニと表現されるものではないでしょうか。
そして、それを守るためには
苔むすカバネとなることも厭いはしない・・・
「君が代」は
そのような高貴な日本人のアイデンティティが込められた
祝い歌であった・・。
何故かはわからないけれど、日本国民が皇室を敬う理由がここにありました。
加筆、修正を重ねております。
初掲 平成20年5月5日
端午の節句に際し、悠仁親王殿下のご成長をお慶び申し上げて
再掲 平成21年9月6日
悠仁親王殿下の三歳のお誕生日を寿ぎ


by こと まとか
「日本武尊」東征の真実 ~ヲ…