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「日本武尊」東征の真実 ~ヲトタチハナ姫の祈り~

2012/04/14 13:02

 

 

               (観音崎灯台より木更津方面を望む)  

 

 

『古事記・日本書紀によれば 

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐のおり、 

 

走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、
 

海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は 

 

海神の怒りを静めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。』  

  

 

 

                                                            『日本武尊・弟橘媛命 伝説の地・御所ヶ崎』

 

 

海神の怒りを静めるために荒れ狂う海に身を投じた・・・ 

 

と、伝わる弟橘姫ですが、 

 

ヲシテ文献では全く違います。 

 

 

 

びーちぇさまの「ヲシテのクニ」アーカイブより、記事を転載させていただきます。 

 

続「まごころ」ヤマトタケさまと ヲトタチバナヒメ その2 

 

こちらの記事は、現在、掲載されておりませんことをご承知ください。  

 

 

 

記紀が隠した歴史の真実 

 

   ヲシテ文献だけが伝える 

 

       「日本武尊」東征の真実   

 

             ~ヲトタチハナ姫の祈り~  

 

 

                                        

                                    (大磯 照ヶ崎海岸) 

 

 

以下、全文引用。

 

 

 
 

初戦に勝利なさったヤマトタケさまは、
 

大磯から上総へと軍船を仕立てられたのですが、
 

折悪しく、大風に舟は危ういさまとなりました。

 

  

                                       

その時、ヲトタチバナヒメは(おそらく)辞世のウタをウタミに染められた後、
 

舟の舳先へ登り立ち、アメツチに祈って、

 

背の君のイヅ(稜威)をヤマト(この場合は全国か?)に立てるため、
 

タツとなって舟を守りますと宣言され、止める間もなく荒海に入水なさいました。

 

 

 

 

皆は驚いて、ヒメの姿を探したのですが、見つけることはできませんでした。
 

 

しかし・・・波はみるまに凪いで、軍船は無事に港に着いたのです。

 

 

 

 

 

「タツ」は、古来富士山の噴火を鎮め、火や炎の害から人を守るとされていたのですが、
 

また日嗣の皇子を守り助ける不思議を起こしてきた、自然の力の象徴なのです。
 

 

 

「タツタカミ」「タツキミ」とも呼ばれ、貴いものとされてきました。

 

古くカミノヨ(祖先の世)では、「タツ」の住むという、富士山のコノシロイケで、
 

世継ぎを願うイサナキさまは、目を洗い、ミソギをなして、一心に祈られ、
 

お生まれになったのは、玉のような日嗣の皇子、アマテル(ワカヒト)さまでした。 

 

 

                                          (足柄峠より)
 

またニニキネさまの3人の皇子とコノハナサクヤヒメを救ったのも、
 

コノシロイケから飛んできたタツであったのです。
 

この三人の皇子のお一人が、後の11代アマカミ・ホホデミさま。

 

そして、その妃との仲が危うくなった時に、御父ニニキネさまは
 

「タツキミ」のミイキのオシエをもって、妃(トヨタマヒメ)のお悩み・・・
 

内気なゆえの誤解を解消なさいました。

 

 

 

また、今回もキミの火水(ヒ・ミツ)の祈りによって、
 

コノシロイケのタツが、豪雨をふらせ、小野の城の猛火を消したのです!

 

 

                               (矢倉岳山頂より大山を望む)

 

 

ならば、自分がカミアガリをなし、その「タツタカミ」になって、
 

背の君のなすべきことを守りお助けしたい。

 

ヲトタチバナヒメのご決心は、まことに強く、
 

「トヨケノリ」で「カミアガリ」されることと、大変良く似ていると私は思います。

 

                               

 

 

「トヨケノリ」とは、死期をさとった御方が、
 

みずから穴の中にはいり、入り口をふさぎ、祈りのうちに亡くなられることです。
 

その祈りは、絶対的な効果をもたらすものでありました。

 

最初のお方はアマテルカミ、
 

そして三輪山で拝領のサカホコと共に、死んだ後も国を護らんと穴にはいられ、
 

カミアガリなされた2代オオモノヌシ・クシヒコさま。
 

ニニキネさまも、そうでいらしたかしら?

 

  

                                     (大磯 照ヶ崎海岸)

 

ヲトタチバナさまは、洞穴に入って死を待たれたのではないけれど、
 

ご自分の強い意志で、祈りのうちに海底に沈み身罷られた。

 

それは決して、記紀のいうように、
 

海神の怒りを鎮める為に、生け贄として身を捧げられたのではなかったのです。

 

 

 

それほど、ヤマトタケさまの決死のお仕事の、深い意味を理解されていた。
 

それは、お命を救わんとして、あるいは身代わりとして・・・とは、
 

書かれていないので分かります。

 

 

 

「わがキミの イヅをヤマトにたてんとす」
 

そのキミのために「タツ」となって舟を守り、軍を無事に送り届けると。

 

そう、イモヲセ(夫婦)の「まごころ」の極致を見るような気が致します。
 

ヲトタチバナヒメは、この時、タケさまと共に戦う武人ともなられた。

 

 

                                                                                         (木更津 吾妻神社)  

 

女性にとっては、連れ添う人が望んでいることを実現させることや、
 

また命がけで取り組んでいる仕事の成功こそが、自分の生きる目的であるのですから。
 

 

                                      (木更津 吾妻神社) 

 

それはきっとサガムのオノの城攻めの後、悟られたことであったのではないでしょうか。

 

数々の戦いは見事に朝廷側の勝利となりましたし、
 

ヒタカミのミチノクのキミも使者の説得に応じられ、
 

朝廷のご意思を心から納得され、従われることとなりました。
 

ここに「ヤマトクニ・ヒノモト」の全国統一が見事に実現しました。

 

 

 

                                           (木更津) 

 

戦いすんで・・・ 

 

タケさまは、帰途のウスヰの坂でヒメのまごころを思い、
 

入水された東南(キサ)の方を望んで、
 

辞世のウタを書かれたウタミ(短冊のようなもの)を取りいだして、
 

声をあげて三度お詠みになり、わが妻よ、ああ・・・と嘆かれました。
 

これにより、この地方をアヅマと呼ぶようになったのです。

 

 

 

 

さねさねし サガムのおのに

 

もゆるひの ホナカにタチテ

 

トヒシキミはも

 

 

サネサネし・・・長い年月を、信じあい睦まじかったお2人。
 

お子さまにも恵まれ、6人もの皇子がいらっしゃいました。
 

そのお二人のお心の純粋さ、清らかさを表すサネ。
 

サは、明るく潤おって、清らかなこと
 

ネは、心の根っこ、根本。

 

しかしまたサは南、ネは北の意味を持ち、タケさまが命を下し、
 

城の南北から救出の部隊を城へと向かわせたこともありますし、
 

また、これらの意味をみな含んでいるとも考えられます。
 

サガムのオノに・・・相模の小野はヲトタチバナさまの母上、
 

ハナタチハナさまのご実家なのです。
 

ここでだけ「ガ」と、悪い意味であることが示されています。
 

でも、通常は「サカム」という地名なので、
 

そこが今「汚されている」ということが判るのです。

 

 

 

 

キミは、なんと(トノヲシテにそった)清らかなお心であったことか。

 

あのエミシが汚していた相模の小野で

 

敵が燃やした焔の中に、凛然とお立ちになり

 

(身の危険も忘れて)他のものの安否を問われていた、我が背の君よ。

 

  

                     (木更津市きみさらずタワー)

 

一般的な男女の愛を超えて、このおウタの清々しくご立派なこと。

 

我がキミにならい、私もできることを致します・・・
 

ヲトタチバナヒメは、そのようなお気持ちであられたのではないでしょうか。

 

信じあい共に生きられたお二人の「まごころ」が
 

本当に伝わって参りますね?  

 

 

             

以上、 

 

全文、びーちぇさまのヲシテのクニ 

 

続「まごころ」ヤマトタケさまと ヲトタチバナヒメ その2 

 

  より、引用させていただきました。

                                   

   「まごころ」ヤマトタケさまと ヲトタチバナヒメ その1 ともに 

    

   現在、書き直しのため掲載されておられません。

 

 

 

伝統その2 「古代における女性の尊さ・皇位継承」改訂版 ご覧ください。

      http://julian.way-nifty.com/woshite/2009/08/post-49ea.html?cid=38626909   

  

 

 

 

 

 

【おうちラジオ】 ヲシテはどうして生まれたのか? 

 

 

 

古大和言葉の誕生ものがたり。 

http://zaigainihonjin.iku4.com/Entry/38/  

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリ: 本・アート  > アート    フォルダ: ヤマトタケさま

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「日本武尊」東征の真実 ~相模攻防編~

2012/04/08 16:50

 

 

『日本武尊東征の際、此の地を過ぎた給ふ時、 

 

石に腰を掛け暫時此の処に休息さられ、 

 

西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ。』

 

 

 

   『後、村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て  

    

          尊を祀りしと云い伝えられている。』 

 

 

 

  

          神奈川県茅ヶ崎市芹澤 腰掛神社           

 

      日本武尊が腰を掛けて休まれたと伝わる「腰掛玉石」

        

      

       

  

相模野台地の南西に位置する高座丘陵地帯の里山からは、 

 

丹沢山塊の大山はもとより、富士、箱根の山々を見渡すことが出来、 

 

近辺からは、縄文、古墳時代の遺構が多く発見されている。 

  

 

 

 

 

はたして、尊は、この地を通られ、大山をご覧になられたのでしょうか? 

 

 

びーちぇさまに画像をお見せして感想をいただきました。  

 

 

以下、引用。

 

 

 

 

ことさま
 

「腰掛神社が良いねえ」・・・です。
 

ヲシテ文献からしても、ヤマトタケさまが初期に平定なさった場所ですし、
 

ヲトタチバナさまの実家をめぐる攻防が勝利に終わって、
 

ホッとされたタケさまを彷彿させますので・・・
 

『日本武尊東征の際、此の地を過ぎた給ふ時、
 

石に腰を掛け暫時此の処に休息さられ、
 

西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ。』
 

上記の文は後世の伝承ですから、
 

丸ごと信じるわけにはいきませんが、
 

ここで39アヤをよく読んでみると、
 

大山も富士山も出てくるんですよね・・・
 

 

ヤマトタケ ヤクラノタケニ
 

ノホリミテ
 

キヒタケヒコオ
 

オオイソエ
 

オオトモタケヒ
 

「オオヤマ」ノ キタニメクリテ
 

シロニイレ
 

サネニワカチテ         ← 南と北に軍勢を分けた
 

ヤマトタケ カミスキキヨメ
 

シラカシノ タチオ「ハラミ」ノ ← ハラミはもちろん富士山
 

ミハシラト
 

イノルヒミツノ
 

キヨハラヒ
 

「指示」という伝承の言葉ですが、何かを命じたのではなく、
 

そちらの方を指さしながら・・・戦いを思い返しておられた。
 

ヤマトタケ軍が通過してきたところだし、
 

ハラミ山に白樫の太刀を見立てて、
 

祈られた結果の勝利であったのですから。 

 

 

―――――― 以上、引用。

 

 

 

  

 

 

ヲシテ文献には、大山が登場していた!

 

 

 

 

 

 

 

びーちぇさまのお許しを得て、 

 

「ヲシテのクニ」アーカイブより、記事を転載させていただきます。 

 

続「まごころ」ヤマトタケさまと ヲトタチバナヒメ その2 

 

こちらの記事は、現在、掲載されておりませんことをご承知ください。 

 

 

 

記紀が隠した歴史の真実 

 

    ヲシテ文献だけが伝える 

 

        日本武尊東征の真実   

 

                 ~相模の攻防編~ 

 

 

以下、全文転載。 

 

 

 

ホツマクニの「カグモトヒコ」を味方に留めるために、
 

ヲトタチバナヒメ(モトヒコの孫で、ヤマトタケの妃)とホズミテシを、
 

またサクラネマシ(モトヒコ嫡孫?)を、先に実家へ使わしました。
 

 

 

この作戦はうまく運び、
 

ヤマトタケさまの軍が出陣した後、(その情報を知った)ヒタカミでは
 

なんとかモトヒコを味方へつけるべく招いたのですが、
 

首を縦に振らなかったと記されます。

 

 

 

 

相模の小野にあるモトヒコのミヤを本営となして、
 

(ホヅミ)テシ、(サクラネ)マシらの武将が、モトヒコと共に守りを固めた所へ、
 

エミシ(賊軍をいう。アイヌでは無い)が攻め上ってきて、取り囲みました。

 

 

さて、ここに前提として承知しておかねばならないことが。 

 

タケさまの出兵は、ホツマクニの隣国「ヤマト」のオオトモタケヒ(おそらく国司)
 

からの要請があったことによります。
 

そして、ホツマクニはすでに、ヱミシ(不逞の輩)が跋扈し悪さをなし、
 

混乱状態のようでした。

 

その状態をホツマクニのカグモトヒコさまの本拠も「サガム」とひと言、
 

カに濁点をつけて、悪い状態を表現しています。
 

以前、この地方は「サカム」のオノといわれていましたのに・・・

 

このホツマクニが、ここまで乱れてしまったのは、
 

領主カグモトヒコさんの、力不足、また失政があったのかも知れません。 

 

 

そしてどうも、この混乱に乗じて「ヒタカミ」も動いていたようです。
 

やはり、ヒタカミのかなり高位の人々の中に、全国統一を喜ばない人もいたのでしょう。
 

できれば、この混乱を利用してホツマクニを支配し利得を得たいという、
 

一部高官の思惑もあったかも知れませんね。 

 

 ヒタカミのタカミムスビの14代目「ミチノク」さまは、

 

その昔のイハワレヒコ東征では、一方の12代アマカミ「ニギハヤヒ」さまが
 

国を奪われたのだと誤解しておられ、その時のように理由もなく、
 

朝廷がヒタカミを奪いにきたと、なぜか信じていらしたようです。

 

また、ニギハヤヒさまの朝廷は、もとは11代アマカミのご長男からのもの。
 

それが次男の系統(ニニキネさま)・・・つまりは、正当でない朝廷に奪われたと。 

 

 

 

もう、はるか800年も昔のことであり、
 

中央から遠いヒタカミでは、二つの朝廷が正式に存在したことなどは、
 

忘れられていたのかも知れません。
 

そして、ニギハヤヒさまの時は、腹心だったナガスネヒコが悪さをなし、
 

それを御上が掌握できなかったことと、ナガスネが勝手に戦を始めてしまったことから、
 

責任を取られて退位、臣籍降下なされたのですけれど。

 

 

 

ヤマトタケさまは、本隊を率いてモトヒコのミヤを目指しておられました。
 

そこに行き会ったのが、どうも味方らしい軍勢(実は敵)でした。
 

おそらく言葉巧みに
 

「私どもはお身方でございます。ご安心なさいませ。
 

 城は堅固ですし、まだ敵は上ってきておりません。」
 

などと欺いたのでしょう。

 

すっかり安心されたタケさまは、勧められるままに、
 

鹿狩りにお出ましになりました。
 

おそらく、気分転換だったのでしょう。

 

ところが・・・ 

 

 

 

 

敵(アダ)は本性を現して、周りの野に火を放ちました。
 

欺かれたと悟ったタケさまは、急ぎ周囲の草をツルギで切り、
 

火をつけて、迎え火となされました。
 

  

                                           (草薙神社)

 

そしてヤマトヒメから教え賜った、火水の祓いのノリトを3度唱えられると、
 

風は東風(コチ)に変わり、西に煙が上がり、
 

炎は敵の居る方向へと向かっていったのです。

 

  

                                            (草薙神社)

 

タケさまは、ここぞと、さらにツルギで草をなぎ倒し、
 

燃える草は敵の方へ飛んで火が移り、見る間に敵は火に巻かれ、焼き滅ぼされました。

 

後にその地をヤケヅノ(焼津)と申すようになりました。
 

  

                                            (草薙神社)

 

また、草を切ったムラクモノツルギの名を「クサナギノツルギ」と改められました。
 

(草薙神社) 

 

そしてこれより、本隊はアシガラヤマにまで攻め至りました。

               (注) 焼津から足柄山までの距離は、約90キロ位でしょうか。 

 

  

 

 

一方、相模の小野の本営では、激しい城攻めが始まっていました。 


 

 

守りは堅く、攻めあぐんだ敵の輩は、70日も日照りが続いていた折から一計を案じ、 


城の周りに薪を積み上げて、火攻めにかかります。 


火は物凄い勢いで燃え上がりました。  

 

 

                                          (矢倉岳 左奥が大山

 

ヤマトタケさまは、ヤグラ岳に登って物見をされていましたが、
 

これを見て、すぐにキビタケヒコを大磯方面から、 


オオトモタケヒを大山の北から城に入らせようと、 


南北に軍をわけ救援に急がせました。 

 

        (注) 矢倉岳から厚木市小野(サガムのオノ)までの距離は約40キロ。  

 

            

                                  (矢倉岳より大磯方面を望む)  

     

 

         

 

 

ヤマトタケさまは、ここに心を鎮め、髪を梳き浄め、
 

白樫の太刀をハラミヤマ(富士山)に見做して立て、 


火水の浄祓いを一心に祈られると、
 

タツタノカミがご出現になったようで、
 

あの聖なるハラミヤマの頂上にある
 

コノシロ池のタツの雨(ものすごい豪雨?)が降り出し、
 

火はたちまち鎮火してしまいました。

 

これは神の守りを受けた戦だとみな勇み立って、敵を半分くらいも討ち取ったところ、
 

残りの敵はみな逃げ散って、勝利の鬨の声が高らかに挙がったのです。  

 

 

                                      (谷戸山のシラカシ) 

 

 

 

勝利の背の君を城にお迎えして、ヲト(タチバナ)ヒメはみ手をとり、
 

やっとやっと安心なさったのです。

 

「私を始め、それぞれはまさに焼け死ぬところでございました。
  
キミが篤く祈りたもうたお陰で、
 いま幸いなことに、こうしてお目にかかることができ・・・」
 

と、ヒメは喜びの涙に袖を浸されました。

 

祖父カグモトヒコはただちに、ホツマクニ全土に触れを出しました。

 

「朝廷に従わなければ殺すというのは
 人々がキミの征伐をお願いしたことによるのである。
 この戦いは、その始まりであったのだ」
 

そして「カグカゴ」をたて、貴い朝廷軍の印しとしました。

 

いかにもタチハナ(カグ)のキミと世々に伝えられた家のお方らしいと思います。
 

この印しの「カグカゴ」によって領主が朝廷にお味方をしていること、
 

戦いは朝廷の勝利に終わったことを、ホツマクニ全体に知らせたのですから。

 

またこの文で重要だと思われるのは,

 

タケさまの「篤い祈り」により助けられたという、ヒメのお言葉です。
 

勝利されたのは、その武勇もさることながら、根本は、
 

アメツチと一致なされた無私の清いお心で、祈りたもうたことにあると。

 

これは、トノヲシテを体現なさっている貴いお方であるという証(あかし)でありましょう。

 

ご出陣のおりにも、御父ギミが言祝がれたお言葉にも、

 

「ミは ワガコ マコトは カミの・・・」
 

目に見えるのは我が子の姿であるが、本当はすでに貴い「カミ」なのであると。 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、 

 

 全文、びーちぇさまのヲシテのクニ(現在アーカイブ)より引用させていただきました。

                                   

 

 

     「まごころ」ヤマトタケさまと ヲトタチバナヒメ その1、 

 

   続「まごころ」ヤマトタケさまと ヲトタチバナヒメ その2 は、 

 

            現在、書き直しのため掲載されておられません。

 

 

 

 

  

     伝統その2 「古代における女性の尊さ・皇位継承」改訂版 ご覧ください。

      http://julian.way-nifty.com/woshite/2009/08/post-49ea.html?cid=38626909                            

 

                              

 

                             

 

                               次回  ヲトタチハナの祈り へ  つづく・・・

 

 

 

                                     

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古大和言葉の誕生ものがたり【動画】

2012/04/03 20:33

 

 

 

我が祖国「ひのもと」は 

 

支那とも朝鮮とも、まったく関係がなく、 

 

血筋も別の独立した民族であり、 

 

日本語は世界最古級の、独立言語なんですよね…… 

 

それが現代にも、長い歴史を繋げて使用されているのです。  

 

古大和言葉の誕生ものがたり。 

http://zaigainihonjin.iku4.com/Entry/38/  

 

       以上、びーちぇさまのコメント引用。 

 

 

必聴! びーちぇさまの動画です! 

 

【おうちラジオ】 ヲシテはどうして生まれたのか?

 

 

 

 

 

【おうちラジオ】 「よ」って、ホントはどんな意味? 

http://zaigainihonjin.iku4.com/Entry/24/
 

 

 

【おうちラジオ】 「かみさま」ってどんなひと? 

http://zaigainihonjin.iku4.com/Entry/35/  

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリ: 本・アート  > アート    フォルダ: おうちラジオ

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草薙の剣の真実 ヒカワカミ編

2012/04/01 16:28

 

 

 

日本武尊東征の折り、 

 

謀略の火責めに遭い 

野火に包まれしとき、 

 

おばのやまと姫から授けられし 

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で

草を薙ぎ払い 

 

危うく難を逃れた。

 

この剣は、 

かつて、スサノヲのおろち退治の際、  

おろちの尾から出たものであった。

 

     

           「アメノムラクモのツルギ」で草を薙ぎ払う日本武尊の図

  

                              

 

  

日本書記では「日本武尊」、古事記では「倭健命」 と、

漢字の”あて字”をされてしまったヤマトタケさま。                              

 

ヲシロワケさま(12代景行天皇)の皇子 

コウスのミコト、イミナ真名)ハナヒコさまは、 

ヤマトタケと名乗っておられました。

 

このお名は、

先年、西国のクマソ征伐の際、 

反乱の首謀人であるクマソタケルから 

ヤマト タケ」と名乗られますように・・・と 

その武勇を称えられた名です。 

 

今、また、東国の平定に 

ヲシロワケさま(景行天皇)の命を受け赴かれるところでした。

 

 

 

   

                              ホツマツタヱ39アヤ 

 

 

 

ムカシ イヅモノ クニ ヒラク ムラクモツルギ コレナルゾ  

 

いとまごいに訪れた伯母のヤマト姫さまより授けられた剣とは、 

かつて、ソサノヲさまが手にしていたものでした。 

 

 

 

 

ヲシテ文献に学ぶ 

          草薙の剣の真実 ヒカワカミ編

  

 


      ソサノヲ「ヲロチ退治」の真相 ~その後~

         

         ヒカワノ カミノ

ヤエタニ ハ  ツネニ ムラクモ

タチ ノホリ  ソビラニ シゲル

マツカヤノ  ナカニ ヤマタノ

オロチ ヰテ  ハハヤカガチノ

ヒトミケ ト  ツツガセラルル

ナナムスメ  ノコル ヒトリノ

イナタヒメ  コレモ ハマント

タラチネ ハ  テナデ アシナデ

イタム トキ 





怒って出奔したハヤコ妃は、 

ヒカワ(出雲)に悪党達を集めてオロチとなっていました。 

 

嫉妬に狂ったハヤコ妃は、コクミらに命じて、 

最初にソサノヲさまに見初められたアカツチの娘ハヤスウ姫を殺させました。 

 

次に嫁候補となったアカツチの弟アシナヅチの娘7人を次々と殺させ、 

ついに、犠牲者が8人となった時、 

 

ソサノヲさまは、ついに、 

ハヤコを斬る決意を固められたのです。





一方、タカマ(朝廷)では、ハタレ討伐のカミハカリ(会議)が行われ、



ミナモトハ  ネノマスヒトニ

ヨルナレバ  イフキドヌシニ

ウタシムル




イフキドヌシさまは、 

アマテルさまのもう一人の弟君であられるツキヨミさまと、 

イヨツ姫のあいだのお子さまで、 

アマテルさま、ゾサノをさまご兄弟の甥にあたられます。 

 

ハタレの乱(大規模な騒乱)平定に格段の働きをしておいででした。 

このたび、乱の元凶となったシラヒト、コクミ退治に赴くところでした。



イツモヂ ノ  ミチニ タタスム シタダミ ヤ

カサ ミノ ツルギ ナゲ ステテ  

ナニ ノリコチノ オオマナコ

 

ナンタハ タキノ オチクタル

トキノスガタヤ ヤトセフリ

オモイ オモエハ ハタレトハ

オゴルココロノ ワレカラ ト   

 

ヤヤ シル イマノ ソサノヲ ガ   

 

クヤミ ノ ナンタ オヂ オ イノ   

 

シム ノ アヤマチ ツクノエト   

 

ナケキ ウタウヤ




イフキドヌシさまの前に現れたのは、 

 

下民に身をやつしたソサノヲさまでありました。 

 

8年ぶりに会う甥であるイフキドヌシさまの前に、 

 

かつて、アマテルさまより諭されたアメノミチ――、 

 

          クニトコタチさま建国以来のたった一つの憲法、「トの教え」の基に

           

          相手の幸せを願う「ナガサキ」のこころ

 

――を知ることもなく、 

 

我が、我こそが・・・!  

 

と、クニカミの地位を望み、 

 

驕り高ぶった心からハタレの乱を引き起こした己の罪を悔い、 

 

大粒の涙を滝のように流しながら、 

 

過ちを嘆くウタを三度詠まれました。

 

 

 

アモニフル  ア ガ ミノ カサ ユ

シム ノ ミキ  ミチヒハサマデ

アラフルオソレ

 

 


 

 

この姿に心をうたれたイフキドヌシさまは、 

 

馬より降りてソサノヲさまの手を引きおこして、 

 

「私を助けてマスヒト討ちに武功を立てれば、罪もはれるでしょう」と、 

 

サダの宮にお連れするのでした。





        ノリ オ サタメテ

ハタレ ネ モ  シラヒト コクミ

オロチ ラモ  ウチ オサメ タル





こうして、かつての恋人であったハヤコ妃とその輩は斬られました。 

 

ヤマタカシラのオロチとは、 

 

オロチたちに8人の頭目があったことを表わしています。




ヲロチとは、オロカナルチカラ

ソサノヲさまが退治されたのは、 

ご自分の弱いお心であったかもしれません。 

 

 

 

 

 

その後、アマテルさまに許されたソサノヲさまは、 

ヒカワカミの称号を賜り、 

 

サホコ(出雲)のクニカミに任命されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

立派なクニカミにおなりになったそうです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                埼玉県大宮 氷川神社 神門

 

 

この時、ハヤコ妃が手にしていた剣が 

 

アメノムラクモのツルギであり、

  

ソサノヲさまの手に渡ったのち、 

 

時代がくだってヤマトタケさまに授けられ 

 

東国平定の旅へと向かわれることになるのです。 

 

 

 

 

 





参照        松本善之助 秘められた日本古代史 ホツマツタヱ

           
            池田 満  「ホツマツタヱ」を読み解く(展望社)
     
                    ホツマ縄文日本のたから  展望社

                    ホツマ辞典        展望社


       定本・ホツマツタヱ  ―日本書記・古事記との対比―

                    松本善之助 監修  
                    池田 満   編者     展望社


  

 

 

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埴輪の起源

2011/02/13 19:52

 

 

 

「相撲」の語源は、誤訳からだった!

 

 

スマヰノ サトニ ハニワナシ  

 

 

「相撲」の語源とは、 

 

ノミスクネと戦った、力自慢のクエハヤが「住まいしていた里」に  

 

ハニ ワ(土俵)を作ったことから 

 

スマヰが誤訳の結果、相撲の語源になってしまったのでしたが、 


ヲシテ文献には、もうひとつの「ハニ ワ」が登場します。 

 

 

びーちぇさまより「ハニワ」について解説いただきました。 

 

 

以下、全文引用。
 

 

 

ヲシテ文献が解き明かす埴輪の起源

 

 

 

 

 

 

 

今で言う埴輪は、ノミノスクネの業績に由来しております。
 

そして「オイカレ」という、
 

我が国にあろうはずのない、
 

心無く酷い「殉喪」の行いが「あった」・・・
 

そのことから発しました。

 

イキオメクマテ
 

カラスルハ イタマシヒカナ
 

フルノリモ ヨカラヌミチハ
 

ヤムヘシソ        (ホツマツタヱ 37ー4、5)

 

 

そして、ヲシテ文書には、
 

真心からの殉死と、
 

自発ではあるけれど制度になってしまった殉死、
 

・・・そして次第に、いやいやながら、
 

やむなくという例もあったことと推察できます。
 

が、その他に、
 

大変むごい強制の「殉喪」が1例、記されています。

 

イクメノキミが心いためられたのは、
 

この強制の「殉喪」です。
 

何と、これが、たった1字で書き分けられているのですねっ!

 

実はこれを発見されたのは、
 

あの「よみがえる日本語」のもう1人の著者、
 

青木純雄氏でした。
 

残念ながら青木氏のその記事は、
 

すでに読めなくなっております。
 

けれども、あまりにも感激致しましたので、
 

良く記憶しているのです。

 

ですから、この解説の責任は、
 

ご紹介した私、びーちぇにありますので、
 

よろしくご承知くださいませ。

 

 

 

 さて、ここに

 

「フルノリモ ヨカラヌミチハ
ヤムヘシソ」 

 

 

というイクメノキミのお言葉があります。
 

この「フルノリ」は、もちろん古い法を意味します。

 

イハワレヒコ(神武)さま以後のヒトノヨ(今の世)の
 

8代・カエシネノキミ(孝昭天皇)のオモムロ納めの時、
 

「イキルミタリモ オヒマカル アメミコノリヤ」という記述があり、
 

ノリ(法)として発せられたらしいです。

 

それが「オヒマカル」と書かれました。
 

オ「イ」マカリと、オ「ヒ」マカリでは違うんです。 

 

 

ヒトノヨ初代・イハワレヒコ(神武)さまのご葬儀では、
 

キサキ、アヒラツヒメとクシミカタマは生きたまま、
 

キミのご遺骸に付き添ってムロに入り、
 

共に「カミアガリ」なさいました。
 

これはカミノヨにおいて、死んでもタマノヲをこの世に止め、
 

いついつまでもクニを護らんとする意思の現れでした。
 

トヨケさまが始められたので「トヨケノリ」とも呼ばれています。

 

そして次の日に、このカミアガリのことを聞いた、
 

キミをお慕いする33人の人たちが、
 

自ら「オイ」マカルことを選んだのです。

 

オ・・・ヲ(キミ)と書くところ、
 

臣下ですから「オ」とへりくだった記し方。
 

イ・・・意思・決心を表します。 

 

つまり「追って」という意味だけではなく、
 

生死をもキミと共にあろうとする、
 

キミをお慕いする篤い心が偲ばれるのですね。 

 

 

 

アマミコガ アメニカエレハ
 

ミソミオフ マメモミサホモ
 

トホルアメカナ      (31-43) 

 

 

 

 

マメは忠義、忠節であり、ミサホは女性を意識した言葉なので、
 

これはキサキ・アヒラツヒメの誠実な御心を表しているのでしょう。
 

このような行いはアメナルミチに適っているということでした。

 

しかし8代のカエシネさまの時には、
 

「オヒマカル」で、追って亡くなったと簡単に書かれています。
 

それでも「マカル」というのは、自然な死をさす言葉ですから、
 

 

 

淡々とアメミコノリに従って殉死を遂げたのでしょう。 

 

そして「オヒカレ」ですね。
 

これはもう習慣的に、イヤでもという感じ。
 

マカルは使っていません。
 

「カレ」は自然な死ではありません。

 

 

 

そしてイクメノキミが心を痛められた強制殉喪には、
 

たった一言「カル」と記してあります。  

 

 

ネツキフカ オモムロオクル
 

ツキサカニ ハヘルヒトラオ
 

イキナガラ ウツメハサケヒ
 

ツイニカル イヌトリハムオ
 

キコシメシ アワレニオホス
 

ミコトノリ 

 

 

 

 

 

 

本当に無茶苦茶ですね。
 

ご遺骸を埋める時、そこに居た人を生きながら埋めたなんて。
 

泣き叫んでいたけれど、ついに「カル」なんですね。
 

それを犬や鳥が食べた・・・

 

 

 

 

 

 

イキオメクマテ
 

カラスルハ イタマシヒカナ
 

フルノリモ ヨカラヌミチハ
 

ヤムヘシソ 

 

 

 

 

 

心からの殉死と、
 

自らではあるけれど制度になってしまった殉死(アメミコノリ)と、
 

その他に、大変むごい強制の殉喪があることがわかります。

 

イクメノキミが心いためられたのは、この強制の殉喪です。

 

 

ミコトノリ サキノオヒカレ
 

ヨカラネハ コノオコナヒハ
 

イカニセン 
 

ノミノスクネガ
 

モフサクハ イケルオウツム 

 

タメシトハ アニヨカランヤ 

 

ハカラント 

 

 

 

 

 

   ・・・ウツムは埋める 

   ・・・タメシは、前例となることはアメノミチには適っていず良くない。 

 

「生きながら強制的に人を埋めることが、
 

前例になるなどとは、
 

アメノミチに逆らうことであり、
 

良くないことですから、
 

私が考えてなんとかいたしましょう」
 

そう、ノミノスクネが申し上げたのですね☆ 

 

 

 

 

 

 

 

イツモノハシヘ  

 

モモメシテ ハニテコオヨヒ  

 

クサクサノ カタチツクリテ
 

タテマツル イマヨリノチハ
 

ハシモノオ イケルニカエテ
 

ミササキニ ウエテタメシト
 

ナスヘシヤ  

 

 

 

 

 

   ・・・ハシヘは土師 

 

   ・・・ハニテコは土を焼いて固めたテコ(人形)のこと  

 

   ・・・ハシモノ 土師もの、つまり焼き物 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてスクネは、出雲から焼き物師を百(モモ)人も呼び出して、
 

土人形を始めとして、いろいろの日常のものを形どり、
 

それを焼き物にしてキミに奉り、
 

「今より後は、生きた人の代わりに焼き物を、陵に植え立てて
 

先例となされるべきでございましょう」
 

と申し上げました。 

 

             (スクネは出雲の出身だったのですね。)  

 

 

 

 

キミヨロコヒテ
 

ミコトノリ ナンチガハカリ
 

ワガココロ ヨシトハニワノ  

 

タテモノオ ノチノタメシト               
 

サタマリテ ノミノスクネオ

 

アツクホメ  

 

カタシトコロオ    
 

タマワリテ ハシノツカサソ 

    

 

 

 

・・・「ハニワノタテモノ」が問題。  

 

ハニ(土を焼いて固めた)ワノ(地面に)タテモノ(立てるもの)

 

相撲の時の「ハニ ワ」土から水を除いた固いもので輪につくった、

 

土俵の意味とは違うものであるのが解ります。
  

もちろんイクメノキミは、たいそうお喜びになりました。 
 

 

それはこの提案に「ワガココロ ヨシ」とまで具体的な表現で
 

「アツクホメ」られたことで解るのですが、
 

ヲシテ時代でも、そうそう有るわけでは無いと思います。 

 

カタシトコロオ    
 

タマワリテ ハシノツカサソ 

 

ノミノスクネは、
 

カタシトコロ(窯を成して焼き物をする)地所を賜って、
 

土師(ハシ)の仕事の全てを、司る長官となりました。 

 

 

 

 (乃木希典)
   うつし世を 神さりましし
      大君の みあと慕ひて
             我はゆくなり

 

 (乃木静子)
    出でまして かえりまし日の
       なしと聞く けふの御幸に
              遇ふぞかなしき

 

 

乃木将軍の辞世の和歌
「オイマカル」そのものではありませんか! 

 

 

 

以上、 

 

びーちぇさまの解説を全文引用させていただきました。 

 

びーちぇさまは、ツイッターをお持ちです。http://twitter.com/julian_beace  

 

  

 

参照        松本善之助 秘められた日本古代史 ホツマツタヱ



            池田 満  「ホツマツタヱ」を読み解く  展望社

                    ホツマ縄文日本のたから 
展望社

                    ホツマ辞典        展望社


       定本・ホツマツタヱ  ―日本書記・古事記との対比―

                    松本善之助 監修  
                    池田 満   編者     展望社
    
 

 

 

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相撲の起源

2011/02/12 17:03

 

 

 

 

「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」 

「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」  

  

日本書紀』には、垂仁天皇7年に野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」とあり 

 

相撲はたいへんに歴史が古く、伝統のあるものですが・・・、 

 

 

 

 

 

 

『記紀原書』である、「ヲシテ文献」ではどのように記されているのでしょう? 

 

相撲の起源について、びーちぇさまに教えていただきました。 

 

 

以下、全文引用。

 

 

記紀原書「ヲシテ文献」でしか解らない 「相撲の起源 」

 

 

  

相撲は上古から、ご皇室ともゆかりの伝統を持つ神事です 

 

日本書紀にもありますが、ヲシテ文献ではさらに詳しく、 

 

日本の心にふれる記載がされています。 

 

ことに「ユミトリ」という神事に関して、ユミトリとは何か、 

 

なぜ始まったかは、ヲシテでしか解らないのです。  

 

 

 

 

. 

                                  定本ホツマツタヱより引用 

 

 

       スマヰノサトニ
 

ハニワナシ タエマハキヨリ
 

ノミハツニ アイタチフメハ
 

ノミツヨク クエハヤガワキ
 

フミテマタ コシフミコロス
 

トキニキミ ウチハオアケテ
 

トヨマセハ トミモヨロコヒ
 

クエハヤガ カナユミオヨヒ
 

タエマクニ ノミニタマワリ
 

イエハツマ ツギナシノミハ
 

ユミトリソコレ 

 

 

 

イクメノキミ(垂仁天皇)の時代は平和でありました。  

 

故に自分の力を試すことが出来ない・・このままでは死にきれぬとの、 

 

オオチカラ(大力)の民の1人の嘆きを聞き届けられ、 

 

初の上覧武芸試合が行われたのです。 

 

その命をかけた試合(戦い)が相撲の起源です。 

 

武芸試合と書きましたが、要は素手による「力くらべ」・・ 

 

ただし、命をかけてのものであったのです。 

 

 オオチカラは「タエマノクエハヤ」 

 

鉄の強弓を1人でフミハル(踏んで張る)力持ち。 

 

キミのお触れの力くらべに、喜んで応じたのが「ノミノスクネ」 

 

勝負に勝ったスクネは、イクメノキミから前述の「カナユミ」を賜ります。 

 

鉄弓と思われますが同時に武を讃える名称です。 

 

また力くらべで亡くなったクエハヤに対し、キミはスクネに命じて、 

 

その所領、クエハヤの妻と家を守らせることになさいました。 

 

スクネには嗣子が無かったので、これも可能だったのでしょう。 

 

後、彼は朝廷にお仕えして活躍することになります。 

 

カナユミの「カナ」が武を讃えるコトハです。 

 

はるか昔のカミノヨ(祖先の時代)のカシマカミ(タケミカツチ)も、 

 

戦いでの功を称える「カナ テ」を賜りました。 

 

乗り弓や乗馬してのツルギのわざに優れ、また大力でもあったのですね。 

 

 

というわけで、相撲の「弓取り式」は、 

 

このカナユミをキミに賜ったことに由来するカミコト(神事)となりました。 

 

 

 

大相撲も、このカミコトの本質を、ケカレなき心で受け止めることが、 

 

まずは必要ではないかと思われます。  

 

 

 

 

 

 

 

「スマヰノサトニ ハニワナシ」
 

スマヰが誤訳の結果、相撲の語源になってしまいました。  

 

 

 

 


                         定本ホツマツタヱ日本書記との対比 

 

 

 

これは、クエハヤの「住まいのあった里」に「ハニ ワ」を作ったのです。
 

土俵の始まりですね。
 

ハニは、土から水を取り除いたもの。で、輪の形に作りました。

 

これをふまえて、37アヤはじめから殉葬の禁止の詔が下ったわけですが。
 

このいきさつは、長くなるので、またの機会にいたします。 

 

 

 

 

 

 

 

カミコトを行う前には、心も身体も祓い清める作法「行」をなすことが必要
 

そしてそのカミが「今、現在に居ますように」 

 

 

心から敬いつつ行うことが、もう1つ大事なこととなります。

 

 

大相撲は「神事」です。 

 

 

神事は音読みで「しんじ」ですが、ヤマトコトバの訓読みでは「カミコト」 

 

カミとは本来、敬うべき「祖先・源」を指しますから 

 

『祖先のなしたこと』『日本の源の事柄」といった意味となります。 

 

このカミコトに、帰化人が伝統も知らないまま漢字を当てはめてしまいました。 

 

ゆえに神事は宗教的なものとは違う。 

 

祖先を敬い、そのご業績をしのぶという、ヤマトの心の伝統作法と言えるでしょう。

 

 

 

重要なのは、カミコト(神事)をなすにあたり、心のあり方が問われることです。 

 

ヲシテが教えるのは「スク」であること。 

 

つまり清明、素直で真直ぐな、誠実な心のあり方があってこそ。 

 

 

ケカレがあってはカミコトの本質を受け伝えることが出来ないのです。
 

 

ケカレとは「気」すなわち生命力が「枯れ」た状態です。 

 

 

「身体のケカレはミソギ」 

 

「心のケカレはウタ」で浄め払うことが出来ると古のアマカミは教えられました。 

  

 

 

 

 

   

「スク」「マメ」はアマテルカミをはじめ、色々な御方が教え諭しておられる事柄であります。

 

相撲そのものが国技にふさわしい歴史と伝統を持つもの・・・故に神事とされたのです。 

 

この視点を見失うと、ご皇室の尊いことや我が国の歴史・伝統が失われてしまいます。 

 

 

 

 

以上、 

 

びーちぇさまの解説を引用させていただきました。   

 

 

びーちぇさまのサイトはこちらです。http://julian.way-nifty.com/woshite/ 

 

 

 

             次回は「埴輪の起源」です。  

 

 

                         

 

 

 

参照        松本善之助 秘められた日本古代史 ホツマツタヱ



            池田 満  「ホツマツタヱ」を読み解く  展望社

                    ホツマ縄文日本のたから 
展望社

                    ホツマ辞典        展望社


       定本・ホツマツタヱ  ―日本書記・古事記との対比―

                    松本善之助 監修  
                    池田 満   編者     展望社
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヲトタチハナ姫(弟橘媛)を祭る吾妻神社(二宮)

2010/08/21 20:57

 

 

ヤマトタケ(日本武尊)さま東征の折、上総に向かう船から 

 

荒れ狂う海に身を投げるヲトタチハナ姫(弟橘媛)の図

 

   

 

相模、上総、双方に伝承が残る、あまりにも有名な場面です。 

 

記紀(日本書記、古事記)の原書であるヲシテ文献では、 

 

出航の地はもとより、どのようなお気持ちであられたのか、 

 

記紀で”わからなくされた”人物像が明らかになります。 

 

 

 

ヲシテ文献で読むヲトタチハナ姫のこころ

 

 

  

 

 

イクサブネ  

 

タダヨフ カゼオ シツメント 

 

オトタチバナ ハ ヘニ ノボリ 

 

アメツチ イノリ ワガキミ ノ 

 

イツオ ヤマトニ タテントス 

 

ワレ キミノタメ タツトナリ 

 

フネ マモラント ウミニイル

 

 

                    ホツマツタヱ 39アヤ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

神奈川県 二宮町 吾妻山公園  

 

 

 

 

 

 

  

 

  

 

山を登って海を見下ろすと、左に見えるのが大磯方面、 

 

海の向こう、左手に三浦半島、 

 

ヲシテ文献に伝わる、ヤマトタケさまご出航の地が大磯、 

 

ヲトタチハナ姫さまが最期を遂げられたのは、 

 

三浦半島の向こうの走水の沖合い、 

 

上総に向かう途中のことでございました。 

 

 

 

 

 

この山にヲトタチハナ姫さまの形見の櫛と帯を 

 

ツカとして、ヤシロを建ててお祭りしましたのが、

 

アツマモリ(吾妻神社)とヲシテ文献に記されています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

これより、画像のみで失礼いたしますが、 

 

ヤマトタケさまもご覧になられたであろう、吾妻山からの富士の景色です。 

 

 

 

  

 

  

 

 

 

  

 

 

ハラミ山(富士山)の手前に見える山が、ヤマトタケさまが登られた矢倉岳  

 

 

  

 さねさねし さがむのおのに もゆるひの  

 

 

        ほなかにたちて とひしきみかも  

 

                                 (ヲトタチハナ姫さまの詠まれたウタ)

 

 

 

 

ヤマトタケさま、ヲトタチハナ姫さまのお話の続き、詳しくは、   

 

池田先生のご著書「ホツマで読むヤマトタケ(日本武尊)物語」で 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 

                              

 

 

 

                               

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「ホツマで読むヤマトタケ(日本武尊)物語」

2010/08/20 21:51

 

 

 

「ホツマで読む ヤマトタケ(日本武尊)物語」 

 

 

 

 

待望の池田満先生の御著書が18日発売になりました。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

各地に残るヤマトタケさまの伝承が、 

 

ヲシテ文献によって解き明かされます。 

 

 

 

謎であった  

 

  相模一ノ宮 寒川神社のご創建の由来も 

 

      「津軽ねぶた」が飾られる不思議・・・ 

 

                 読んで納得・・・です  

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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ワカ姫~和歌のマシナイ~「扇祭りの由来」編

2010/04/25 14:07

 

 

熊野速玉大社(新宮市新宮)には、もう一つの扇祭りがあり、 

7月14日「扇立祭(おうぎたてまつり)」として開催されます。 

  

 

  

 

旧暦六月十四日午後六時、祝詞奏上の後、神殿に扇を立てて拝礼するという簡素なものですが、田楽があり、納涼をかねた紀南最大の夏祭りとして有名です。桧扇は本殿用の高さ1・5メートル、幅1・65メートルの1本と、拝殿用の高さ80センチ、幅1・3メートルの6本。短冊状の薄いヒノキ板に金ぱくや銀ぱく、絵の具で山水花鳥が鮮やかに描かれています。同大社は室町時代に朝廷から奉納された桧扇11本(国宝)を所蔵。祭り用に使われているものは、1964年に複製したものです。参拝者は、この神扇を通して豊作や無病息災を願ってお参りします。

 

 

 

お祭り前に虫干しが行われる扇 

 

 

 

今回は、扇祭りの由来となった「穂虫はらい」と、その「ウタ」についてです。 

 

 

 

ヲシテ文献だから根拠がある! 

 

    扇祭りの由来 ~ワカ姫、和歌のマシナイ~ 

 

                     「ホムシハラヒのウタ」の巻   

 

 

 

 

 

ワカ姫さまは、お名前をヒルコヒメと申され、 

アマテルさまの姉として御生まれでしたが、

ご両親、イサナギ、イサナミさまのアメノフシ(厄年)に当っていたことから、

3歳の時に捨て子されます。 

のちに、アマテルさまの妹として、ご両親の元に戻られますが、  

 

ご幼少のころは、カナサキさまご夫婦の慈しみと、 

ご教育のもと、聡明にお育ちになられました。 

  

教養豊かで才知にあふれ、お若くしてコト(琴)の名手であり、

ワカ(和歌)の達人であられたことからワカ姫と呼ばれることになります。 

 

 

 

 

御母上イサナミさまがお亡くなりになられたあと、 

アマテルさまが新しくひらいた都、イサワの宮(志摩)にお住まいだった時のお話です。 

 

 

 

 

 

 

 

キシヰノ イナダ ホヲ ムシニ イタムオ ナケキ 

 

キシヰ(今の和歌山市)から 

稲穂を荒らす害虫が大発生したと知らせる使者が朝廷にやってきました。 

 

アマテルさまは、あいにく、天橋立に行幸なさった後だったため、 

アマテルさまのご名代、正妃ムカツ姫ホノコさまと共に、 

キシヰに向かわれたのでした。 

    

 

 

 

 

 

 

 

ホノコさまが田圃の東側に立たれ、

田圃を囲むように30人の女性を左右に佇ませました。

 

そうして、ワカ姫さまの御詠みになった穂虫払いのウタを 

西に向かって、みなで声をそろえ歌いました。 

 

 

タネハタネウムスギサカメマメスメラノソロハモハメソムシモミナシム

 

 

くり返し、くり返し、32音のマシナイウタを360回、 

田圃が揺れんばかりに歌いますと、 

ついに、虫は飛び去り、西の海へ落ちていきました。 

 

害虫が去った田圃はよみがえり、稲が実りをつけるようになり、人々はよろこびました。 

 

 

カレタル イネノ ワカカエル ワカノウタヨリ ワカノ クニ 

 

枯れかけた稲が若返ったことから、短歌をワカウタと呼ぶことになり、 

クニの名も、ワカのクニとなりました。 

 

 

 

 

オシクサニ アフグ ワカヒメ ウタヨミテ 

 

ワカ姫が、この穂虫払いの時に扇いで使ったのが、カラスアフギの葉です。

 

 

 

 

 

 

ヌバタマノ ハナハ ホノホノ カラスバノ  

 

アカキハ ヒノデ 

  

  

 

 

カラスアフギの種ヌバタマは、真っ黒の闇の色をしているけれども、 

 

その花の色は日の出を思わせ、夏至の最も太陽の高い頃につける。 

  

 

 

東から昇り、南に高くあがり、西に沈む太陽の運行と

 

  

春の若葉、夏の青葉、秋の紅葉、 

冬、葉が落ちるとも、地下には根が息づいて春を待つ 

 

樹木の成長と自然の循環とを、

キ(東)ツ(西)サ(南)ネ(北)に重ね合わせ、 

 

大自然の恵みを受け、人々に教え、栄えさせ、 

国の中心で治めるアマカミの存在をヲ(中央)と表わす、  

 

キ(東) ツ(西) ヲ(中央) サ(南) ネ(北) 

 

ワカ姫は、この自然の成り立ちを、 

かつて、ご養父カナサキさまから学ばれたものでした。

 

稲の全滅という人々の絶望の渕から、  

みごとに国民を豊かに導いた教え草を 

「クニモリヲサム」象徴の桧扇とし、 

後年、シタテル姫のお名とともにアマテルカミよりたまわりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

速玉大社 国宝の檜扇

 

 

 

 

 

さて、ワカ姫さまの難解な「ホムシハラヒのウタ」について、 

びーちぇさまより教えていただきました。 

 

以下に引用いたします。

 

 

 

難しいですが、ウタの句読点がポイントになるのですね。  

 

 

タネ ハタネ 
 

ウム スキ サカメ
 

マメ スメ ラノ
 

ソロハモ ハメソ
 

ムシモ ミナ シム 

 

 

タネ ・・・種あるいは、田んぼの根っこ
 

ハタネ ・・同じく畑の種、または畑の根本

 

ウム ・・・生じる、又はウムキ(大麦)
 

スキ ・・・スムキ(小麦の略)
 

サカメ ・・豆の類と思われます。
 

マメ ・・・大豆
 

スメ ・・・小豆
 

ソロ・・・稲(ソ)と畑の菜っ葉や雑穀(ロ)

 

 

以上の訳は、ホツマツタヱ38アヤに、
 

カミノリカヰ・カミアリカヰという、
 

秋から年越し、新年のミケ(神饌)のことが、
 

詳しく書いてあるので判るのです。
 

読んでみて下さいね?

 

「カヰ」は言うまでもなく、お粥のこと。
 

面白いのは、年越しは「お蕎麦」じゃないんです!

 

 

トシコエ ハ ウムキト スメト
 

ヨネ ムマス トシノリ ヤマサ
 

オニヤラヰ

 

 

大麦と小豆とお米を蒸す・・・
 

まるで、麦入りのお赤飯みたいな?

 

さて、
 

このウタは、たいそう難しくて、
 

私もいまいち自信がないのですが、
 

ほぼ、以下のような意味と思います。 

 

田や畑からは、
 

大麦、小麦、大豆や小豆など、
 

アメの循環からの恵みが生じます。
 

(虫たちよ)
 

このような恵みの稲や作物の葉を
 

(独り占めに)
 

食べてはいけない。

 

(なぜなら、虫のお前たちも、
 

循環の中では仲間なのだから) 

 

「シム」というのが、「血族、身内」、 

 

「我欲の強いもの」の意味ですから、 

 

このような意味かと推測できます。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、びーちぇさまの解説と、マシナイの図解を引用させていただきました。 

 

びーちぇさまのサイトはこちらです。 

 

http://julian.way-nifty.com/woshite/2010/04/post-132a.html

 

 

 

 

 

ホムシハラヒのウタは、 

すべては自然の循環の中にあることを詠んだものであった―― 

 

さらに、このウタは、32音で「字余り」だったのですが、 

この意味については、いずれかの機会といたします。 

 

 

                                             

 

 

                                   

 

 

参照        松本善之助 秘められた日本古代史 ホツマツタヱ



            池田 満  「ホツマツタヱ」を読み解く  展望社

                    ホツマ縄文日本のたから 
展望社

                    ホツマ辞典        展望社


       定本・ホツマツタヱ  ―日本書記・古事記との対比―

                    松本善之助 監修  
                    池田 満   編者     展望社

  

 

 

 

 

 

                                             

 

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熊野「カラス」の真相

2010/04/11 11:02

 

 

神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもと、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と熊野那智大社社伝には、記録され 

   

那智の滝  

  

 

例大祭(扇祭り)では、八咫烏帽をかぶった権宮司がさまざまな神事に臨まれます。 

 

 

 

 

境内の随所にカラスに関連するものがみられ、那智大社のみならず、 

 

 

八咫烏は、今では、熊野のシンボルキャラクターとなっています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神武天皇東征のおり、山道を道案内したといわれるヤタガラスとは? 

 

以前のエントリ神武東征(5)ヤタガラスで教えていただきました 

 

以下に再掲します。
 

この方は、イミナ(実名)をミチオミといわれ、7代タカミムスビの御子(次男)クシタマさまの
子孫なのです。初代タカミムスビの御子(次男アメカカミ)の3代後が「イサナギ」さまですし、
5代タカミムスビの姫御子が「イサナミ」さまですから、このお血筋の方なのですね・・・

 

イハワレヒコ(神武)さまが、皇統を1つにまとめるために、
東征なさった時に、お味方として一族を率い、道をご案内なさったわけです。
おそらく、その一帯が代々任されてきたご領地だったのでしょう。
長年静かに、地方を治めてこられたのだと思います。
ただの豪族ではなかったことは、大事なことだと思います。

 

 

Σ(*゚◇゚*) でも、なぜカラス? 


 

カラスという鳥(そして、ニワトリも)は大変良いものとされていました。
カラスの「カ」の字もそうですが、あのカアカアと言う鳴き声もね?
「カ」とは明るく輝くという意味がありますから。
このお名も褒め名であると思います。

ヤタにはヲヲヤケ(公)という意味もあり、
カラスは幸運を運んでくる目出度い鳥ですから、
キミのご苦難の時に幸運をもたらしたという意味で、
お名を賜ったのではないかと想像するのですが。
 

 

スヘラギノ ユメニアマテル
カミノツケ ヤタノカラスオ
ミチビキト 
サムレハヤタノ
カラスアリ 


 

アマテルさまのお告げには、
    「ヤタのカラスと称する、運をもたらす者が現れるので、
    その者を導きとせよ」 

 

オゝチガウガツ
アスカミチ イクサヒキユク
ミチヲミガ ミネコエウダノ
ウガチムラ
    
 

オオチという一族が開いたアスカミチを、
    その頭領のミチヲミ(ヤタカラスと称す)は、キミの軍を導き、
    峰を越え、ウダのウガチムラまで案内しました 

 

以上、一部、再掲。 

 

 

ヤタガラスは、ミチヲミ(=オウチ)という名前の人物で、称え名であった! 

 

 

 

しかし、「カラス」には、もっとさかのぼる以前からの意外な由来があったのです。 

 

 

 

いつものようにびーちぇさまの解説を引用させていただきます。 

 

 

ヲシテ文献でなければ解けない! 

 

    古代日本の謎 ~熊野のカラス~   

 

 

 

 

 

死ぬことを「マカル」ともいいますが、
 

これはアメノミチに添った自然な死です。
 

それに対し、
 

事故などで、思いがけず死ぬ時には、
 

ただ、「カル」と使っているようです。

 

 

 

死ぬのではないけれど、
 

オオナムチの「トミカレ」があります。
 

目に見える冨(財物)にとらわれて、心が貧しい状態なのでしょう。
 

そういえば、
 

「ケカレ」は、ケ(生命エネルギー)が枯れた状態です。

 

「シヰ」のエネルギーが枯れて力を失います。
 

ですから、自由になったタマはアメに還っていけるのです。

 

 

 

「シコメ」は、
 

イサナギさまが、無残なご遺体を見て発せられたお言葉から、

 

ヴィジョンとして現れたものかなあと思いました。

 

「イナヤ シコメキ キタナキ」

 

そして、ヌカタタさまが奉られるお役目になられた、

 

クマノカミのお働きとは、


「シコメガ シヰオ カラス カミ」なのですね。


「ガ」に、悪い意味を表すヒゲ濁点が付いています。

 

また、そもそもクマノミヤは、


すべての人々のヲヱ(体の病)クマ(心の病)をも、


自分の身に受けて除こう(カラそう)と、


祖母ギミ、イサナミさまが命をかけて立てられたミヤです。


ですから、まことに


イサナミさまが「クマノカミ」であられることが判ると思います。 

 

 

 

さて、タマシヰとは、
 

ヲの要素である「タマ」、メの要素である「シヰ」
 

から成っているものです。
 

そして、この世での身体維持、
 

生命維持を司っているのが、シヰなのです。

 

しかし、この働きが強くなりすぎると、

 

我というものになり、はては欲となってしまいます。

 

これは、まことに醜く悪いもの。

 

 

以上の考察から、

 

「シコメ」とは、このメの要素シヰが強くなりすぎ、

 

凝り固まった・・・

 

故に悪いものとして、

 

転じて「醜女」という意味になったのだと思います。

 

シ・・・シ(ヰ)の強すぎるもの

 

コ・・・それが凝り固まる

 

メ・・・メの要素

 

そして、イサナギさまは夢の中で、

 

ご自分の心が創り出した「シコメ」に追われておしまいになった・・・

 

それを退けたのは、

 

夫婦の絆を表していた「桃」であったのですね。

 

カミになられたイサナミさまに助けられたように    

 

私は感じてしまいます。

   

 

さて、鳥のカラスですが、 

 

クロという色は、前にも書きましたように、 

 

アメの生命エネルギーを放射し続ける意味の色です。 

 

そして、若きアマテルさまがヒタカミに勉学にいかれた時に、 

 

 

ミコノヒカリノ 

 

テリトホリ ヤモニコカネノ 

 

ハナサケハ ヒノワカミヤノ  

 

ワカヒトト トヨケヰミナオ 

 

タテマツル 

 

 

その後、お住まいのミヤだけは、 

  

カラスがコカネを咥えて集まるのだそうです。

 

 

ヒノキミノ ミヤモルカラス 

   

コカネハク ツヒニキカヤモ 

 

コカネサク 

 

 

烏が光るものが好きで、集める習性は知られていますが、 

 

それにしても、素敵な光景だと思いませんか? 

 

 

 

「ヌカタタよ」と仰せになって、イサナミさまとクマノカミ、 

 

そしてカラスカミと鳥のカラスとの結びつきを、お教えになったのは、 

 

もちろん御父上のアマテルさまなのです。 

 

カラスは以後、悪いものを枯らし、 

 

幸運をもたらす象徴の鳥になりました。 

 

何百年の後、 

 

オオチのミチヲミさんへの「称え名・ヤタノカラス」も、 

 

こういうことが由縁にあったのですから! 

 

 

 

 

以上、引用させていただきました。 

 

クロの色について、詳しくはびーちぇさまの記事をご覧ください。 

 

アマテルカミの お馬 (2)
http://julian.way-nifty.com/woshite/2010/02/post-ba0b.html
思うこと、イロイロ
http://julian.way-nifty.com/woshite/2010/02/post-b143.html 

 

 

 

 

参照        松本善之助 秘められた日本古代史 ホツマツタヱ



            池田 満  「ホツマツタヱ」を読み解く  展望社

                    ホツマ縄文日本のたから 
展望社

                    ホツマ辞典        展望社


       定本・ホツマツタヱ  ―日本書記・古事記との対比―

                    松本善之助 監修  
                    池田 満   編者     展望社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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